記憶の遺構」 太平洋戦争時、佐世保大空襲で活躍した砲台跡


                    (太平洋戦争時の残された、佐世保市の砲台跡) 平成22年〜25年撮影記録

       明治22年7月佐世保市に海軍鎮守府が開庁し、日露戦争、その後太平洋戦争と突き進み市内の山や高台に
     
     は軍港、軍需工場などを守る為の砲台が建設されました。

     戦争末期の昭和20年頃には毎日の様に本土空襲が有り、佐世保市でも昭和20年6月29日大空襲を受け一夜
     
     にして焼野原となりました。当時、私が住む折尾瀬村(現)佐世保市木原町から西側に位置する佐世保市街の空が
     
     真っ赤に焼けたのを今でもはっきり記憶しています。
       
     その頃は昼間でも悠々とB29は1万mの高度、また米空母艦載機のグラマンは低飛行で襲って来ていました。猫山
     
     砲台から高射砲で盛んに反撃するも一発も命中せず歯がゆい思いで見ていました。時には上空では敵機と空中戦
     
     もあり、空の燃料ンクが田んぼに落下した事もあります、まるで戦場の有り様でした。
    
      70年以上も過ぎ去った現在でも当時の悲惨さを忘れる事は有りません。その頃の国民は大人も子供まで皆、戦争

     体験者で有り、大なり小なりの犠牲者でもあります。私たち国民は「欲しがりません勝つまでは」と言い聞かせられ、

     ゴム製品の運動靴さえ無く特に田舎の者は藁草履、雨日は下駄ばきで片道4キロの道のりを通学していました。
     
     そんな当時を偲び複雑な思いで取材に参り現地を見る度に物量不足の中、戦争末期の各戦地では懸命に戦った多
    
     くの兵隊の方々の苦労や無念さはいかほどだったのでしょうか。
     
      あの忌まわしい戦争の瑕跡が戦後70年余りを経過した今日、現在でも僅かに残っていますが次第に忘れ去られ様
     
     としています。此処に展示の写真はほんの一部の遺構に過ぎません地元古老や、地元の方の案内で現地を訪れ
     
     市内10ヶ所全てを訪ねて調査し、戦争当時の体感者の一人として記録撮影いたしました。
     

       
       
                        「戦争ほど惨めなものはない、久平和を祈念する
         
                                          
 
                                   平成24年〜25年撮影:画像は随時追加予定です。


 


八尋岳素掘り砲台跡



   (佐世保大空襲の時、反撃に活躍した八尋岳素掘り砲台の跡) 平成25年3月撮影

戦争末期、ここ八尋岳に資材も人手も不足で急遽、素掘りの砲台陣地を作り車輪付高射砲を構え

て敵機に反撃していました。他に濠が沢山掘ってあり、今も便所や兵舎の跡が僅かに残っています


佐世保大空襲時は、弓張り岳砲台と、ここ松山町八尋岳砲台陣地からも盛んに砲撃したそうです。

当時、真向かい側の横尾、中通町から良く見えていた。(
直径約5〜6m)









此の記録撮影では、旧軍の資料など綿密に調べました。尚、地元大崎町の住人を訪ね直接お尋ねしました。

地下豪



  (佐世保旧海軍軍港を守る重要な砲台施設豪跡) 中はかなり広い様で、天井真中に空気抜きが有る。

此処は、港に突き出た半島であり佐世保軍港を守るに重要な砲台施設だった、20戸ほどの住人

は強制移転させられ戦後に、此処に戻った。当時は、何百人も兵隊がいて大きな兵舎が有った。

佐世保空襲の際は盛んに砲撃したと、地元86歳の古老は話される。
「平成25年11月撮影記録」


(注) この
記録は旧軍の資料を基に綿密に知らべました。
  また、地元大崎町の住人を訪ね直接聞き書きしたものです。









(猫山砲台跡)



猫山海軍砲台の弾薬庫、中は畳10畳ほど有る、鉄の扉は持ち去られていた。

戦後、アメリカ軍により砲台は完全に破壊されたがこの様なコンクリート施設は残っている。

68年を過ぎ、静かに眠る遺構と対峙し撮影していると悲惨な戦争を思い出し、複雑な思い

で撮影しました。

(注)元佐世保市平松町在住の私と同年者「久野近」氏の現地同行案内で取材。













猫山砲台跡



猫山砲台の機関砲銃座跡:早岐上空で空中戦が

昭和20年戦争末期には、アメリカの艦載機グラマンが編隊低空で襲って来ていた、1機は波佐見の山に

撃墜された。当時は早岐駅が銃撃を受けている。学校の行き帰りには白い服装は避けて敵飛行機が来

たら物の影に隠れていた。終戦後に地元の方が見た此の砲座は、深さ背丈ほど有った様で、戦後68年

を過ぎる現在、塹壕は浅くなり雑木が生い茂る。此処から早岐、現在の大塔ジャスコ店は真下に見える,

此の辺りには砲弾の破片が上から落ちていたそうです。

(注)現調査は、当時佐世保市平松町住人の知人「久野」氏が同行案内。










柚木八天岳


    素掘りの高射砲座跡 此の真中に砲座が有ったコンクリートが残る

太平洋戦争末期には、資材不足で一部のみコンクリートで俄かな砲台で敵機を迎え撃っていた。当時は、

折尾瀬村小学校
現、三川内小学)の小学5〜6年生頃に猫山、八天岳砲台から砲撃するが高度一万m

の敵機B29には当時の日本の大砲弾位ではは届かない、悠々と飛んでいた子供ながらに悔しい思いで

下から見ていました。










弓張り岳倉庫?跡


山中に煉瓦作りの建物。屋根は瓦葺きらしい、入口が1ヵ所有り窓は無い中はがらんどう。

何かの倉庫か、機器が有った様に思われる。



 












弓張り岳


      佐世保大空襲時に活躍した唯一残る砲台跡(今は観光地)

弓張り岳砲台跡・真中に高射砲が据えられた。現在は立派な公園に整備されています。

昭和16年頃に、戦争が始まり慌ただしくコンクリートを打ち作られた。真中のつつじの木

の所が砲座の中心地です。同じ物もう1基、今は野外音楽堂の探照灯跡と付随する施設

兵舎跡、赤レンガの指令所、大きな水タンク、機関砲銃座跡など多くの遺構が今も残る。


(注)「当時のコンクリートと現在の見分け方」 昔はコンクリートの材料でバラスは川の自然玉石を使用。

戦後は、山から採取された石で人工砕石を全て使っている。此処弓針砲台は玉石で有る。










弓張り岳砲台陣地跡



当時の、日本本土決戦を必死で構えて居たかと想像させる様な陣地跡

戦争末期に資材、人不足で、固まった生セメントをそのまま積み上げ陣地が作って有る。

他に4ヵ所ほど有り中は人の丈ほど窪みとなっている。弓張り岳機関砲座跡です。

昭和20年戦争末期には、真下にある佐世保海軍工廠を狙って敵機グラマンが低空で襲って

来ていた。沖縄占領後、次はいよいよ九州上陸日本本土決戦一億総玉砕言う事で小学5〜6

年生の子供に竹槍でアメリカ敵兵をこれで突くのだと、懸命に運動場で藁人形を突く練習させ

られた。今、思いだし夢のよう、馬鹿の様な出来事は当時、三川内小学校(元折尾瀬小学校)

で私が当時実際に経験した本当の話です。











弓張り岳見張り所跡


周囲を石で囲んだ陣地、此処から下の大きな濠につながっていた様子

下方に大きな素掘りの濠跡が幾つもあり。モグラの道の様な連絡道跡がある。













猫山砲台跡


機関砲の砲座の跡か。穴の中に木が生えている 猫山砲台跡

此の周りには兵舎、水場、など未だ沢山のが残っていました。太平洋戦で活躍した砲台は終戦直後

占領軍により完全に破壊されました。主な10ヵ所全てをくまなく探索した僅かな遺構が残されてい

ます。









針尾大崎砲台跡



    弾薬庫 針尾大崎砲台跡

畳6畳程の広さです。戦時中資材不足で入口は粗雑な石組で慌ただし作った感じで。、

この奥は厚いコンクリートで固てあり、付き当たり左奥人が入る様な空気抜きは無い。

俵ヵ浦半島等の有る日露戦争当時の弾薬庫とは比較にならない俄か作りである。









針尾大崎砲台塹壕跡



真下は、当時の軍港と弾薬庫












針尾の錐先砲台探照灯跡)

当時は小高い山で、ここから見渡せる針尾海兵団や、川棚軍需工場など守る為の砲台が

有り、付属の探照灯が設置して有った。現在はミカン畑で写真は農具入れ物置に利用さ

れている。元針尾海兵団〜川棚海軍工廠などの守りの砲台で有った。

(注)当時の海兵団跡は、今は平和な広大なハウステンボスです。













石盛岳砲台跡



知見寺町の石盛岳高射砲台跡

ここの砲台は、北部から佐世保市街に入る敵機を迎え打つの

に設置されていた様です。空襲時は敵機に発砲していた。










大崎砲台跡



施設建設時の未使用セメントの塊:大崎砲台跡に残る陣地建物跡に有る物資不足で

紙の袋が無く、大きな藁の米俵に詰めたセメントの固り。










大崎砲台跡



砲台施設跡:大崎砲台跡の崩壊した赤レンガ









大崎砲台兵舎跡


施設跡:山の中の兵舎で兵隊たちの生活跡が残る。現在は深い杉林でイノシシのヌタ場がある。












大崎砲台兵舎跡



兵舎跡に残る琺瑯引きの食器
他に当時の大日本ビール名のビール瓶なども有りました。

戦時中の日本は、統合で日本のビール会社は2社のみで有った。兵舎で、上官だけの

癒しの飲みものだたのかも












九十九島:高島番岳砲台跡に有る説明看板













高島砲台聴音機跡 公園、回りの石垣は当時のまま。













聴音機指令室跡・左上は現在の観光展望台。












横尾前岳豪跡・佐世保空襲時、弾薬庫などに使用されていた。









本ページは随時追加予定です。